山口県柳井市伊保庄地区コミュニティ協議会

歴史コラム

柳井市教育委員会 社会教育指導員を務めている松島幸夫氏が「広報やない」に連載されている「郷土史コラム」の、伊保庄に関する記事を紹介します。

やないの先人たちの知恵と汗

伊保庄編

知の拠点の完成に向けて⑤ 奇兵隊で活躍した武廣 遜(たけひろ ゆずる)

 

我々は日常の生活を営みながら、不断に知識を吸収し、創意工夫をしています。野菜作りをするには、種撒きの時期・土壌・肥料・病害虫・連作障害などについて知識を得る必要がありますし、天候や土質を見て臨機応変に工夫をします。調理をするにしろ掃除をするにしろ、知識や工夫が役立ちます。ただし時に、全く次元の違った情報に触れることで、人生が変わってしまうこともあります。幕末に農民として生きることを運命づけられていた人間が、高度な情報を吸収したことによって、歴史を動かす人物になりました。
伊保庄の弘津(ひろつ)家に生まれ、先端情報をもった知者が集まる克己堂(こっきどう)で学んだ武廣遜です。彼は後に、弘津家から分家独立して武廣姓になります。
 上の写真は遜の奇兵隊員時代の写真です。彼が長岡や会津で幕府側を壊滅させて下関に凱旋(がいせん)した際に撮られた写真で、幕府を倒そうと戦う雄姿を再現しています。彼は農民として生きる運命にありましたが、毛利家の重臣浦家の学校である克己堂が庶民にも入門を許可したことによって人生が変わったのです。彼は伊保庄の自宅から阿月の克己堂まで毎日走って往復しました。次元の違う新たな情報を求める知識欲が彼を走らせました。奇兵隊員として討幕戦争に参画した彼は、維新後には陸軍大尉に昇格し、天皇を護衛する近衛隊の第一大隊第三中隊長にまで出世しますが、そのために克己堂に通い始めたのではありません。あくまで知識欲が出発点でした。知者の輪に入って漢文の解読に励み、筆記の力を高めました。
 彼は討幕戦争に明け暮れた様子を日記に残しています。長州藩内での主導権争い、幕府が侵攻した際の四境戦争、越後に遠征しての戦争を詳細に記し、大所高所(たいしょこうしょ)から戦況分析をしています。知的好奇心をもって克己堂へ走ったことが、彼の人生を180度転換させ、有用な人物にしたのです。

出典:広報やない令和5年7月13日号

荘園の成立 03 伊保庄

 2回にわたり、市内のさまざまな地区がかつて荘園であったことを解説しました。今回は、伊保庄が京都の賀茂別雷(かもわけいかづち)神社(上賀茂神社)の荘園であったことについて考察します。
 伊保庄の近長に賀茂神社があります。
海から神域に向かって長い参道のある、荘厳な雰囲気を持つ神社です。伊保庄の賀茂神社は、伊保庄や阿月がかつて賀茂別雷神社の荘園であったことに由来し、由来書には創建について寛治元(1087)年に京都から勧請(神の分霊を他所で祭ること)したと記されています。なお平生町の尾国や上関町の室津や八島などにも賀茂神社がありますが、それらの場所もかつては賀茂別雷神社の荘園でした。賀茂別雷神社の創建は神話の時代にまで遡り、皇室と密接な関係にありました。神社の祭礼である「葵祭(賀茂祭)」には、天皇の勅使である斎王が従者を連れて祭礼に参加していました。現在でも民間人が斎王代となって、御所から下鴨神社や上賀茂神社へ多くの従者役を引き連れて参拝し、平安絵巻が繰り広げられます。
 長きにわたり伊保庄や阿月からの租米が京都の上賀茂神社に送られましたが、その上納米は上賀茂神社で飼っている神馬の草餌代として使われていました。それらの神馬は毎年5月に開催される葵祭で、競馬(くらべうま)神事に駆り出されて疾走しました。
神馬を飼うために柳井地域の荘園からの租米が必要だったのです。今でも競馬を催す際には、古来の風習に従い「次は伊保庄の馬が疾走します」と紹介されるそうです。
 さて、伊保庄の明力遺跡で、京都への租米を集荷する際に使用したと推察される室町時代の小型の硯が発見されました。伊保庄賀茂神社から800m北に行った場所です。住民が集荷場へ運び込んだ米を神職役人が立ちまわりながらチェックし、現場にて帳簿に記録していた姿が 甦よみがえってきます。

出典:広報やない令和4年10月13日号

般若姫物語の歴史的真相 03 都に向けての武器輸送

 飛鳥朝廷では、財務担当の蘇我氏と軍事担当の物部氏との対立が激化していました。蘇我氏は軍事的にも優位を確保しようと考え、豊後(大分県)の金属精錬技術者に近づいて、大量の鉄製武器を入手しました。その歴史的事実に脚色が加えられて、橘豊日皇子が豊後に下向して般若姫と結ばれる物語を生んだのです。橘豊日皇子は586年に用明天皇として即位しますが、その翌年に蘇我馬子軍が物部守屋軍を討ち取って、物部氏は滅んでします。この戦いには、用明天皇の第二皇子である厩戸皇子(後の聖徳太子)も弓を持って参戦し大活躍をしています。豊後からの武器の入手によって、蘇我氏は飛鳥政権の覇者となるのです。
 武器入手の歴史的事実を脚色した般若姫物語では、炭焼小五郎が財をなして真野長者となり、百済(朝鮮半島の南西部にあった国)の船に金銀財宝を積んで、都に送るストーリーになっています。その百済船には物語の主役である般若姫が乗り、一足先に都に帰った橘豊日皇子を追って、豊後臼杵の港を後にします。船は数回の強風に遭遇し、なかなか順調な航海になりません。大分県の沖に姫島がありますが、般若姫が荒波のために避難したことから「姫島」の名が付いたと言われています。当時の船にはエンジンがなく、帆に風を受けての航海ですから、航海は風まかせでした。しかも現在のような正確な天気予報がありませんから、嵐の到来が予知できませんでした。したがって当時の船は、海岸沿いを航海しました。物語では、般若姫が阿月・伊保庄・柳井津に次々と上陸していますがうなずける話です。熊毛半島の南東部に上陸したところ、あまりの炎天に姫が「暑きかな」と言ったことから「阿月」の地名が付いたと言われています。また次の海岸では、姫が魚を見て「うおの庄かな」と言ったことから「伊保庄」の地名が付いたと言われます。「柳井」の地名の由来については、皆さんがご存知のとおりです。また、柳と井戸の東方には「姫田川」が流れていますが、それも姫にゆかりがあるからだと言われています。先人たちのウイットに、思わず顔がほころびます。

出典:広報やない令和3年6月10日号

黒曜石に先人たちの苦労を探る

 遺跡の発掘調査をすると、黒曜石の破片がよく出土します。広報やない令和2年5月14日号(No.328)で紹介した上峠遺跡でも、石匙が出土しています。
 黒曜石は天然ガラスでキラキラと輝き、カミソリのような鋭利な刃を持っています。この石匙と名付けられた道具は、肉を切るなどの用途に使いました。
 黒色なので黒曜石と名付けられているものの、当地域で出土する黒曜石はやや白濁しています。白濁した黒曜石は他所にはなく、大分県姫島でしか採取できないため、姫島に渡って入手しなければなりませんでした。
 渡海するにはまず丸木船を造らなければなりません。船を造るために木を倒したり、その丸木を加工したりするには、石斧を作っておかなければなりません。船の製作には多大な労力を要したのです。
 また、やっとのことで漕ぎだしても、渡海の途中で強風が吹き出し、難破することもあったでしょう。
天気予報がなかった時代の航海は命がけでした。さらに姫島に渡ったからといって、勝手に取っていいわけではありません。貴重な原石を入手するには、等価の貴重品を持参して交換したと思われます。
 このように、机上で考えただけでも、幾重もの苦労が推察され、想像以上の困難が伴ったはずです。
 科学技術と分業生産体制に支えられた現在の快適な暮らしは、先人たちの知恵と汗による試行錯誤の積み重ねの上に実現したことを時折思い出し、感謝をしたいものです。今日の快適な生活は、悠久の歴史に支えられて成り立っているのです。

出典:広報やない令和2年7月9日号

伊保庄の弥生遺跡・高地の集落で戦乱から身を守る

 今我々は、新型コロナウイルスと戦っています。歴史を振り返ると、柳井市の先人たちも幾多の天災や人災に遭遇してきましたが、そのたびに並々ならぬ努力をし、克服してきました。今回は、弥生時代の危機にどう対処したかを見てみましょう。
 平成29年、伊保庄の上峠遺跡で発掘調査を行いました。大星山の中腹に位置し、標高80mの高所にある集落です。出土した土器によって弥生時代から古墳時代にかけて造られた集落とわかりました。
稲作をする時代に、なぜ不便な高所を選んだのでしょうか。
 その疑問には、出土した石が答えてくれます。住居の直近におびただしい数の石が置かれていました。石の径は10cm 前後です。その中には川から運び上げた石も混ざっています。集石の目的は、敵が攻めて来た際に投弾とするためです。
 縄文時代は平和な時代でしたが、弥生時代になって稲作が大陸から伝来すると、他村の貯蓄米を略奪する争いが始まりました。豊かになった代償に、戦いの社会になったのです。柳井近辺の先人たちも不便な高地に登らざるを得ませんでした。一連の戦いによって大和政権が誕生し、日本統一がなされたのです。
 上峠遺跡から更に高い山稜(さんりょう)にも集落が造られました。戦闘が最も激化した時期に造られた吹越遺跡です。投弾用の石だけでなく、人を殺傷するための鉄鏃(てつぞく)⦅矢じり⦆が出土しました。吹越遺跡や上峠遺跡の高地性集落は、日本統一の過程における厳しい時代の生きざまを示してくれます。

出典:広報やない令和2年5月14日号

縄文土器が散乱する伊保庄マリンパーク
サザンセト伊保庄マリンパークの縄文遺跡・自然の恵み

 太古の人々は食料を自分たちで獲得しなければなりません。前回紹介した日積の南大原遺跡では食用の小動物を獲るために長い溝を掘っていました。上幅1mでV字の形に掘り込んでいます。落ちると這い上がれません。調査区内で23mの長さを確認しましたが、さらに調査区外にも続いていました。小動物を追い立てて、長溝に落とし込んで捕らえたのでしょう。溝を掘るには道具が必要です。掘り具を製作するには多大な労力を要しました。タンパク質を口にするにはかなりの知恵と汗を要したのです。
  ところが海岸の集落においては、肉類を容易く手に入れる方法がありました。貝掘りです。幾世代の長期にわたって貝を食べ続け、貝の殻を捨てました。その貝殻の集積跡を、現代人は貝塚と呼んでいます。伊保庄や阿月などの縄文人も、貝をしっかり食べていました。なのに、貝塚がまったく発見されません。
  伊保庄マリンパークは人気の高い海水浴場ですが、その北側の海浜におびただしい数の縄文土器片が貝殻とともに砂中に混入しています。貝を煮沸した際の破損土器片をそのまま海浜に放置したのでしょう。有名な黒島浜遺跡です。阿月の与浦遺跡の海浜でも同様です。集落に貝を持ち帰らずに、海浜において貝を煮て食したと考えられます。あるいは貝の肉だけを取り出して家に持ち帰り、舌鼓を打ったのかもしれません。自然の恵みを取り入れる先人たちの営みの仕方によって、地域性が生まれたのです。

出典:広報やない令和2年1月9日号

市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫氏著

伊保庄あれこれ

伊保庄が位置する一帯は、かつて周防東部最大の製塩地でした。また、歴代村長や有力者は、主要道路となる往還や教育の整備に精力的に取り組んでいました。
失われていく遺構と共に、消えていく伊保庄の歴史を、郷土史の中に探っていきます。

大正2(1913)年に開削されるまで、高須浜一帯は柳井十四番浜と呼ばれる塩田でした。
かつて入浜式の塩田だった小田浜跡。現在はグラウンドや小学校になっています。
柳井医療センターも明治末期まで揚浜法の塩田でした。
塩田について
伊保庄の主要産業だった製塩業

江戸時代、毛利氏の政策によって海岸の開作(干拓)が進められ、多くの入浜式塩田が築造されました。製塩方法には大きく分けて、浜兵に海水をかけ蒸発させる揚兵法と、満潮時の海面よりやや低くした塩田を造り、海水を導入して天日で濃くして最後に釡で煮つめる入浜式の2つ方法があります。伊保庄・阿月では、小野・中村・近長・竹の浦で揚浜が、そして高須・小田・宇積では入浜が、それぞれ小規模な集団で運営されていました。
一時は隆盛を極めた塩づくりですが、瀬戸内沿岸のどこでも競って塩田が造られたため、塩の供給過剰にしばしば見舞われ、苦しい経営を余儀なくされるようになりました。そのため、台風などで罹災すると、復旧することなく放置されることも多く、さらに明治後期には、塩の専売制が敷かれたのをきっかけに収益性の低い塩田整理が行われ、伊保庄・阿月の塩田は戦前までにすべて廃止してしまいました。
現在、伊保庄・阿月の塩田跡地に行ってみても、当時の面影を残すものはありません。
しかし、南浜には、海水を塩田に導入する水路にかかっていた天津橋が、ビジコム柳井スタジアム横に移設されたことにより現存しています。この橋は足がないところから、専ら「幽霊橋」と呼ばれてました。この橋を見つめていると、周囲にあった塩田で浜子たちが、浜子唄を歌いながら塩を集めている姿がよみがえってきます。

参考文献 : 周東歴史物語

小田小学校
柳井南小学校
伊保庄小学校の歴史
学制発布に先んじた学びの場

明治5年から明治26年までの学校の様子を「周陽尋常高等小学校沿革誌」として、小田浩校長先生が、仔細に書きとめておられるものを、村上省吾先生からご指導をいただいて解読した内容によるものです。
この沿革誌によりますと、明治5年3月8日、郷中の宗寿院(当時は願行寺)の境内に校舎を建て「中村学校」を開校したのがはじまりです。
上八で酒造業などを営む弘津源之助さんが、村の有志に呼びかけ、島田忠之亮さんを月給4円(これより10年後、明治15年の一般教員の給料4円というのがある)で教師として招聘(しょうへい)し、書物を寄付するなど開校に向けて大変ご苦労されたようです。その後明治5年8月、明治政府は学制を発布しました。そこで中村小学校と改称されました。国で定めた教科書があるわけでもなく、江戸時代の寺子屋教育風で「詠み・書き」が主流であったようです。
明治5年といえば風俗は旧藩時代のままで、まだ刀を差して歩いてもよい時代なのです。私の祖父は慶応生まれですが、髪はチョンマゲ風に、わらしびでくくって学校に行ったと言っていました。明治7年3月に小学校教則が施行され、下等小学校と上等小学校に分けられました。下等小学校では、読書・算術・習字・書取・問答・作文・体操が定められています。明治8年入学する生徒も増加したことから、向田の民有地(毘沙門堂の近く)を借用して、二階建て瓦葺の校舎が同年6月竣工しています。現在の位置に小学校が移されたのは、明治17年9月のことで、それを期に「周陽小学校」と改称されました。
明治5年について「天声人語」に面白い記事がありましたので、付け足しておきます。

短日にして多忙。慌ただしさの極まる師走が、1872(明治5)年はたった2日で終わった。旧暦が新暦に改められ、12月3日が明治6年の1月1日になった。前にも書いたが、急なお触れに人々はてんやわんやだったそうだ。唐突な改暦にはわけがあった。大隅重信の明かすところでは、新政府の財政は火の車だった。だが、明治6年には閏月(うるうづき)があり、官吏の月給を13回払うことになる。太陽暦なら12回ですむと気づき、慌てて変えたのだという。

参考文献 : 伊保庄あれこれ 伊保庄歴史探訪会

(写真上)大正15(1926)年から昭和3(1928)年にかけて行われた直線道路工事を記念して建てられた道路改築之が、黒島神社参道前にある。
(写真右)旧旭橋全景。奥に見えるのが新旭橋。現在旧旭橋は、老朽化で通行禁止となっています。
寄本石材店裏手に残るかつての往還。大正時代までは主要道路の多くがこのような狭い路地でした。
明治初期、当時の往還を弘津源之助戸長が私財を投じ、拡張した貫通路は現在も土穂石川沿いに残っています。
伊保庄の道路について
歴代村長の執念が実を結んだ道路拡張

伊保庄の往還道は、巾1mもない不便な交通路だったため、歴代の村長は代々懸命に拡張拡大に努力してきました。明治5年より戸長河添種蔵から広津源之助へと、数年もかけ直路改修の必要を説得し、自からも私財を投じ、各戸の出役で各部落毎の海岸線に沿った貫通路、巾2m、長さ6㎞(青木、知啓寺、毛田、賀茂前、向田、郷中、岡河内、老猿西麓、上八空、中郷、和田石、瀬越、神田、亀石、小木尾、上浜、高須、田布路木)の長路を明治6年に完成させました。第2期として、近長上、開作、八幡山東麓、小野、老猿答麓と新道を作り、巾3m、長さ8㎞、を明治12年に改新しました。総延人員958人と、文字通り村民一体の作業で、村民の労苦の結晶でもあります。これが今も旧道と呼ぶ道です。
同時に今まで渡船であった土穂石川に『旭橋』の架橋も企画、それまでは森田坂次郎が船賃一文で船渡ししていましたが、明治11年平原市助、奥原勘太郎、清水久明3人の発起で、工費約530円を私財でまかない、木橋を架け、通行料片道2厘、牛馬車4厘を徴収していました。その後、豊田森蔵の発案で、資金を河野為冶郎、工事監督を村瀬甚吉が受け持ち、八海橋より石を運び、石橋に架けかえました。通行料も人は5厘、牛馬車は一銭に値上げされました。明治43(1910)年、村長村上信吉がこれを村営に移管したことで、通行料は廃止になりました。
昭和7(1932)年村長河添一祐は、コンクリート橋、幅5m長さ約100m、総工費2万6千8百円で竣工、同50年3月まで、柳井地区とを結ぶ重要な役割を果たしていましたが、交通量の増大と重車両に耐えられず、また日立工場の進出などで、柳井の西沖割に通じる「新旭橋」が新設されました。
村内の支路に当たる各部落に至る道も、大正2(1913)年から昭和5(1930)年にかけて貫通道路を中心に、これも村民労役によって、幅2mのものが10線、延べ10㎞にわたり改修完成しています。これほど道路整備へ執念を見せた歴代村長がいる地区は、他に例がありません。

参考文献 : 伊保庄あれこれ 伊保庄歴史探訪会