山口県柳井市伊保庄地区コミュニティ協議会

瀬戸内の小さな集落から大きく羽ばたいた先人たち

若山牧水の歌碑がある烏島
万葉研究に業績を残した郷土史家
村上磐太郎(むらかみ いわたろう)

明治31(1898)年~昭和55(1980)年
伊保庄開作、村上信吉の長男に生まれ、旧制岩国中学校を卒業の後、家業の酒造業を継いだ磐太郎は、 大正10年、25歳のころ「創作社」の若山牧水に師事し、歌作のかたわら国文学を研究し、『創作』、『短歌研究』などに短歌、研究論文を発表し、特に万葉研究に顕著な業績を残しました。若山牧水、若山喜志子、吉井勇、小杉放庵、杉敏介などの来訪を受け、持ち島の「烏島」に牧水の歌碑を建立、孤島の碑として全国でも珍しい例とされます。

若山牧水の歌碑

伊保庄開作の沖合の烏島波打ちぎわに、縦4.7メートル、横4.4メートル、奥行き3.7メートルの巨岩があります。花崗岩で縦1メートル、横1.45メートルを平坦に削った面に刻まれたこの歌は、若山牧水自筆による歌です。大正14(1925)年11月3日、喜志子夫人とともに九州方面へ旅行した際、柳井駅で途中下車した牧水は可卿を訪れています。その時詠んだ歌三首のうちの一首がこの歌です。
烏島の波打ちぎわにこの歌碑を建てたのは村上可卿で、昭和19(1944)年のことです。

からす島
かげりて黒き 磯のいはに
千鳥こそをれ こぎよれば見ゆ
大正十四年秋 牧水
戦前の鉄道普及に邁進した文武両道
村上国平(むらかみ くにへい)

明治38(1905)年~昭和46(1971)年
伊保庄開作の村上信吉の三男に生まれた国平は、旧制岩国中学校、広島高等学校、東大法学部を卒業し、昭和6年に満鉄に入社、9年在職した後、華北交通の総務部長として出向、さらに張家口、天津鉄路局総務部長と歴任しましたが、戦争により21年内地に引き揚げ、上京して中央労働委員会事務局斡旋課長となりました。
中学校時代から陸上競技選手として活躍し、東大在学中の昭和4年に100メートルを10秒6、200メートル21秒5の日本新記録を樹立するなど、輝かしい日本記録を残しています。そのほか在学中に日仏対抗陸上競技大会で100、200メートルに優勝。極東オリンピック大会にも出場して100、200、400メートル、さらに走巾跳び、三段跳びと活躍しました。

朝鮮半島の経済発展に尽力する傍ら、俳句でも頭角を現す
村上星洞

村上星洞は伊保庄開作に生まれ、年少の時志を抱いて韓国に渡り、後に木浦商工会議所会頭その他の要職に就き半島経済界の発展に尽しました。
また、俳句は清原枴童に学び、高浜虚子のすすめでホトトギス同人となります。本年米寿に達して身心なお壮者を凌ぐの概あるここに、子女等相謀りいよいよその寿の久しからんことを祈ってこの句碑を造り、産土(うぶすな)の神に奉納しました。
句碑は縦100cm、横75cm、奥行き50cmの花崗岩で、昭和37(1962)年4月に建立されました。

巌上に漁翁を置いて天高し 星洞
辱知 村上磐太郎
(句碑背面銅板より)
弘津千代生家跡の碑
代表作「吉田御殿」昭和に活躍した劇作家
弘津チヨ(ひろつ チヨ)

明治34年(1901)~昭和58年(1983)
伊保庄上八に生まれ、大正11年に日本女子大学国文学科を卒業、劇作家中村吉蔵に師事し、東京で劇作に専念します。ペンネームは弘津千代。その代表作は「吉田御殿」で、戦前には帝国劇場、魚座、南座、戦後にも歌舞伎座で中村時蔵らによって上演され、その他二、三の戯曲も数回上演されています。
戦時中は上八の自宅に疎開し、戦後は近辺の新制中学校の教師として教壇に立ちましたが、再び上京、昭和58(1983)年夏、京都にて逝去しました。82歳。
伊保庄上八漁港入口の県道沿いに建つこの碑は花崗岩で、縦109cm、横25.5cm、奥行き13.5cm。平成9年3月、柳井市郷談会伊保庄有志によって建立されました。