平安後期に京都賀茂神社の分霊を受けて社殿が造営されたのが始まりとされる賀茂神社は、桧皮葺きの壮麗な屋根、肘木の見事な篭彫り(旧大島郡東和町の名工・門井宗吉の手による)など、神殿建築の粋をこらした荘重典雅な社殿をもつ神社です。唐様神殿の代表的な建築で、まわりの社叢(社の森)ともよく調和しています。
鎮座九百年を記念して、平成12(2000)年に社殿の大改修と式年祭が行われました。ニの鳥居は寛永14(1637)年、願主平之朝臣乃美孫兵衛尉元貞(阿月浦家)による寄進で、薩洲住石大工・木賀兵衛(きのかへえ)柳井宮本・代田八幡宮、防府天満宮などと同じ石大工によるものです。
尚、神殿の両袖に、児島高徳桜樹への詩、新田義貞稲村が崎潮引き祈願の見事な彫刻があります。また、ニの鳥居前の糺橋の左右と拝殿前におがたまの木があります。往古はこの木の枝を神前に捧げて招魂(オキタマ)としたものと言います。貴重な木です。
祭神 : 雷命 鴨玉依姫命 三毛入野命
本殿 : 流造桧皮葺 幣殿 切妻造瓦葺 拝殿 入母屋破風造瓦葺
由緒 : 堀川天皇寛治元年(1087)山城国下加茂社 加茂御祖神社から建角身命 玉依姫命(鴨)を勧請
参考文献:「伊保庄あれこれ」伊保庄歴史探訪会
祭神・神社明細帳には保食(ウケモチ)神となっているますが、防長注進案およびそれ以前の記録には、「天皇の御歌を併せ祭る」と併記してあります。伊保庄の古記に「天武天皇の白鳳12年、3足の赤烏北の里に出生して之を貢朝、天子より小烏の御歌を賜う、その歌を口傍に納めて、小烏の神社と祭りあり」と記された古い伝説をもつお社です。
天武天皇は、朝貢した赤い3本足の烏を殊のほかお喜びになられ、国の瑞兆なりと年号を朱烏とされましたが、その年天皇は崩御、その烏も死んだので烏霊を祭祀したのが小烏神社の始まりとされます。その拠り所は天武天皇即位14年に、朱烏の年号が明らかにあります。
又伊保庄の語源は、烏の王が生まれた庄と言う処からと烏王の庄(うおうのしょう)と天皇が名付けられた、それが後に伊保庄に転化したと言う中々面白い伝説があります。
この社の由来には他に五烏伝説もあります。
五烏伝説は、厳島神(市杵島姫命)が伊保庄島逗留された際、神通の車を曳いていた五色の鴉が亡くなったことを嘆き、現在の高須(高洲村)に亡骸を埋め、小社を建て五烏の宮と名づけ、住み続けるつもりでしたが、洲により島が陸地に近くなったため、宮島に移ったと言われています。
時が移り、五烏の宮の腐食が目立ち始めると、村人の夢枕に五彩烏のが現れ、今より高い場所に祀るようにとの託宣を受けたことから、現在の山に祀り代えたとあります。
この伝説も宮島に市杵島姫命がお移りになったのが、推古天皇代とあります。
宮島の弥山神社創建も同時代であります。
さて時移り年改まって、高洲の五烏の宮も腐食甚だしい時に、村人の夢枕に五彩烏の霊現れ、今より高き処に祀るようにとの託宣によって、村人驚き現在の山に祀り代えたとあります。
神殿・幣殿・拝殿同一屋根 木造瓦葺 板囲 板敷向拝濡縁(昭和62年式年祭あり再建)
参考文献:「伊保庄あれこれ」伊保庄歴史探訪会
天平年中(1573~91)願誉行善が開山した専称寺は、一万本のツツジ群と江戸後期に造成された庭園で有名です。
境内にある影向(えこう)の井池は名水で、この井戸の水を毘沙門天に供えて服用すると薬効あらたかと伝えられます。また、ツツジに囲まれて立つ等身大の巡釈姿の地蔵は京保(1718)年に建立されたものです。
ツツジ群に加え、イチョウの大木、境内周辺のモミジもやないの名木に名を連ね、春は桜とツツジ、夏は深緑、秋は紅葉と、四季を通して彩りの美しい寺です。
参考文献:「柳井お宝マップ 伊保庄地区編」豊笑家倶楽部
写真 : 柳井市観光協会・(一社)山口県観光連盟
県道72号線と海にはされまた小高い山の上にあり、祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、創建は不明です。
神社東側の海岸に大きな岩があり、「赤石の屏風岩」と言われています。旧暦の大晦日夜半、般若姫の魂が竜燈(火の玉)となって瀬戸のうず潮の中から般若寺の観音堂を目指す時に、ここでひと休みしたとされています。
また伝説では、松の緑が映える美しい浜辺に市杵島姫命が人の姿となってこの地に訪れたとき、姫の経血を始末するために岩を屏風代わりとし、不浄水を岩の傍らに埋めたところ、小石が赤く染まったのでこの処を赤石と言い、岩を屏風岩と呼ぶようになったと言われます。
参考文献 : 柳井にっぽん晴れ街道「小瀬上関往還-伊保庄地区」
国立病院の南西の小岡に、旧第八部隊船舶工兵隊の戦死戦没した方の霊を慰めるために、昭和53年5月27日、自然石の雄心の碑が建立されました。土地の郷土史家・村上磐太郎先生は、日頃から工兵隊の将兵が血みどろの猛訓練をするのを目前で毎日みておられ、それが戦争終結後も瞼の裏に焼き付いて離れず、国の為に生命を投げ出された将兵の霊を、少しでも慰めてあげたいと、関係の人達と計って遂に、第八部隊由縁の地に、高さ2.3m・巾1.3mの霊碑を建てられました。
碑には、この部隊の隊員であった、歌人近藤芳美〈現代短歌協会理事長・故人〉の自筆の歌が刻まれています。
椰子の葉の 偽装のさやぎ この埠頭の 明けをつね征けり 声は還らず
芳美
参考文献:「伊保庄あれこれ」伊保庄歴史探訪会
老猿山の磯に擬宝珠が三つ重なったように見える雲母を含む岩礁があります。文政7(1824)年に発見した当時は神様として扱われていたらしく、柵が施されたとみられる柱の穴が残されています。永年波に洗われてきたことから、少し風化してきています。
亀の形をした大きな岩が目印です。
江戸時代の作と考えられていますが、明治初期に修理されたようで、閻魔大王の台座裏に「後ニ明治九年戌旧正月・直シ仕立之・・・」とあります。この修理の際、一回り大きい閻魔大王を一体造り、台座裏に修理の意図を記して寄進されたため、閻魔大王が2体となり、十王が11体となっています。十王が全部そろっているのは極めて珍しく、貴重な文化財です。
「開作の胡子」から間近に見える無人島で、島の先端に若山牧水の歌碑があります。巨石に「からす島 かげりて黒き 磯のいはに 千鳥こそをれ こぎよれば見ゆ 大正十四年 牧水」と彫られています。
作家村上春樹がこの地を訪れたことは「辺境・近境」(新潮社)に載っています。