伊保庄に人類が移住した歴史は3万年前にまで遡ります。人々はどのようにして伊保庄に辿り着き、どんな暮らしをしていたのかを、柳井史の第一人者、柳井市教育委員会 社会教育指導員の松島幸夫先生がまとめ、書き下ろししてくださいました。
このコーナーでは、私たちの故郷である柳井市伊保庄の先人たちが、どのような生活をしてきたかをシリーズで振り返ります。その冒頭にあたる今回は、伊保庄において人類が住み始める以前に、郷土の土質と地形がどのようにして形成されたのかを探ってみましょう。
伊保庄の土質はとても軟弱です。今から40年くらい前でしたか、旧柳井南中学校の南隣に位置する和田石の集落で大災害が起きました。大雨が降ったことによって、山が崩落したのです。多くの居宅が押し流されました。大量の土石が襲いかかって、首まで土に埋まった人があったと聞きました。TVや新聞で崩落現場の悲惨な状況が、全国に向けて発信されました。全国の人々が注目するのは大災害の時だけですが、伊保庄では大雨ごとに各所で小さな崩落が頻発します。その度に伊保庄の人々は補修を繰り返してきました。
なぜに伊保庄では地崩れが頻発するのでしょうか。それは伊保庄全域が軟弱な花崗岩質の地形だからです。風化してもろくなった花崗岩が、雨に削られて真砂になり崩れ落ちるからです。花崗岩は地中深くのマグマが、ゆっくり冷える際に様々な成分が結晶化してできた石です。マグマが上昇する際に、雲母・石英・長石などの成分が、それぞれに結晶となりながら結合したのです。強く結びつけば、墓や建築材料に使う固い御影石になります。ところが結びつきが弱いと、ボロボロ崩れていく、いわゆる腐れ石になります。ただし大星山や杵崎山の山頂付近には、硬質の安山岩も混ざっています。安山岩は風化が進行しにくいために、山稜が形成されたのです。
軟弱な花崗岩が多いことによって災害も起きますが、悪いことばかりではありません。
恩恵をもたらしてくれる側面もあります。花崗岩が崩れて生じた砂が海岸に流れ下ったことにより、江戸時代や明治時代には塩づくりが盛んでした。今では高度成長時代に沖の海底で砂を大量に採取したために、遠浅の砂地が消滅しましたが、以前には広い砂地がありました。その砂地を平坦にして潮水を引き込み、その海水を天日に干して塩分濃度を高め、最後に釡で煮て塩を作りました。沖合いに堤防を巡らせて造った塩田が、伊保庄の海岸のいたるところに造られました。「開作」の地名は、堤防を巡らせて製塩を行う塩田を開作したことに因む地名です。また小田には小規模な塩田が存在したのですが、そのことに因んで「小田」の地名が付けられたのかもしれません。
軟弱な土質は、傾斜地を稲田や畑に変えることを容易にしました。「耕して天に至る」の言葉どおり、山頂の近くまで耕作地を造成しました。しかしながら傾斜があまりにも急な場所では、苦労して耕作地にしても崩落することが多かったと思われます。また固い石が少なく石垣を積みにくかったことも、開墾を困難にしました。それでも工夫をしながら耕作地を拡大し続けたのです。先人たちの苦労がしのばれ、頭が下がります。近年はサラリーマンが多くなって山頂付近での耕作は放棄されましたが、藪に分け入ってみると、かつて耕作地であった形跡が随所で見られます。
さらに伊保庄の高所での耕作には、不利な条件がありました。熊毛半島には奥深い山がありません。したがって農業用水は、見上げることのできる範囲から下ってくるだけです。すぐに枯れてしまいます。大量の水が常時流れ下ることはありません。そこで水の確保が難しい畑では、乾燥に強い綿花などの栽培をしました。だからでしょうか、柳井地域では最初に、綿織物を製造する株式会社が伊保庄に設立されています。先人たちは自然条件を上手く利用しながら、努力を重ねて郷土の発展に尽くしたのです。
次に伊保庄の地形は、なぜ南北に長いのかを考えてみましょう。
西日本の地形は、基本的に東西方向に長く伸びています。中国山地や四国山地の山々は東西方向に長い峰をなしており、瀬戸内海も東西方向に長く横たわっています。柳井においても琴石山・大平山・石城山が東西方向に列をなしています。氷室ヶ岳や赤子山も東西方向に稜線を伸ばしています。ところが例外的に、熊毛半島だけは北から南に向けて長く突き出しています。半島の東側に位置する伊保庄も、南北に長い形です。麓から見上げる杵崎山・大星山・鳩ヶ峰の峰々も南北方向に並んでいます。
我々の故郷である伊保庄の地形が南北方向に長い原因は、プレートの動きに関係があります。我々が立っている大地はマグマの上に浮いている板状の地殻(プレート)で、渦巻くマグマの上に乗ってゆっくり動いています。西日本においては南から北向きに流れて来たフィリピン海プレートがユーラシア大陸プレートに衝突して、東西方向に長い皺を造り上げました。褶曲造山運動です。ところが北へ向かっていたフィリピン海プレートが、太平洋プレートに行く手を遮られて、西向きに方向を変えました。すると西向きに強く押す圧力によって、大地の皺は南北方向に長く形成されることになりました。フィリピン海プレートのダイナミックな地殻運動が、伊保庄の長い地形を生み出したのです。すなわち西日本においては、まず東西方向に長い地形が最初にでき、その後で例外的に熊毛半島のような南北方向に長い地形が形成されたのです。
なお熊毛半島の南端部では、プレート移動による褶曲造山活動に加えて、火山の噴火による造山活動も加わりました。地下のマグマが地殻の隙間から噴出して、皇座山の山頂部が形成されました。皇座山には、空中に噴出したマグマが急に冷やされてできた凝灰岩が多く見られます。
前回は、伊保庄の土質や地形がどの様に形成されたかを見ました。今回は伊保庄に人類が登場した頃の様子についてお話しましょう。
太古の大昔から伊保庄に人間がいたわけではありません。地球はもともと火の塊でした。やがてマグマの表面が冷やされて陸地や海が形成されます。そして今から約40億年前に、タンパク質が偶然にも合成されました。タンパク質は結びつきあい、生命体になります。さらに進化を重ねて複雑な機能を有し、高度化していきます。ついには南アフリカで人類が生れます。人類はユーラシア大陸を移動し、東アジアにも移動して来ました。北京原人やジャワ原人が有名です。火の使用や栄養の改善によって、体毛が少なくなります。そのことによって体熱を多量に発散させることが容易になりました。獣の疾走よりも遅いのですが、体熱を発散させやすい体になり、長く走り回ることができるようになりました。石を利用しての道具も作り出して、狩りが上手になります。やがて日本列島に渡って来ます。そうして伊保庄にも人類が登場し、歴史を刻み始めます。伊保庄に人類が登場したのは、今から約3万年前のことです。
人類が日本に渡って来た頃の地球は、冷えていました。氷河期だったのです。ヴェルム氷河期は約7万年前から約1万年前まで続きました。なかでも寒冷化が最も厳しかったのは約2万年前で、現在の気温に比べると平均気温が7度も低かったそうです。したがって北極や南極に氷河が厚く積み重なっており、海水は少なかったようです。
したがって伊保庄から周防大島へは、歩いて行けました。それどころか、四国や九州へも歩いて行けたのです。現在の瀬戸内海は、当時は草原でした。ナウマンゾウや二ホンムカシジカが草を食んでいたのです。その証拠に、瀬戸内海の海底からナウマンゾウの歯や牙の化石、二ホンムカシジカの角の化石などが引き上げられています。伊保庄の付近では平郡島の周辺海底から採取されています。
伊保庄の先人たちも草を食したでしょうが、併せてタンパク質を摂らなければ生きていけません。ナウマンゾウなどの大型獣を倒すには、槍や斧が必須です。石で鋭い刃物を作り、木の棒の先にくくり付けて、狩猟を行いました。打ち欠いて作った石の道具ですから、打製石器と言います。磨製石器が作られるよりも古い道具ですから旧石器とも称します。歴史学者は、その時代を旧石器時代と名付けました。
伊保庄の黒島で2個の打製石器が採取されています。関東などでは、多くの打製石器が出土します。火山灰が降り積もってできた関東ローム層に打製石器が閉じ込められ、良好に保存されたために多く出土するのです。しかし真砂土の多い柳井地域では、豪雨の度毎に真砂土が打製石器を巻き込んでしまいます。あるいは崩落した真砂土が、旧石器人の生活舞台の上に厚くかぶさってしまいました。したがって柳井地域では、少しの打製石器が出土しただけでも、旧石器人たちがこの地域を良き狩猟場としていたであろうことが推察されます。
サザンセト伊保庄マリンパーク(黒島浜海水浴場)に小山がありま すが、そこの斜面で2点の打製石器が採取されました。2点とも安山岩を打ち欠いて作っています。鋭利な打製刃物を作るには、石どうしを打ち付けるのではなく、動物の角や骨を石に打ちつけて作ります。やや軟弱な角や骨が、最適なのです。石を偏平に割った後で、鳥の翼の形に整えながら刃を付けます。黒島で出土した2点は、ともに長さが約6㎝、幅が約3㎝、厚さが約1㎝です。手に握って動物の皮を剥いだり、肉を切ったりする用途に使いました。
大陸から渡って来て伊保庄に辿り着いた旧石器人は、冷たい風雪に耐えながら、厳しい生活を強いられていました。辛い毎日でした。夏には草原となりましたが、草が大繁茂するのではなく、木の実もほんのわずかであったろうと推察されます。植物の生育が悪いために、大型獣は新たな草地を求めて広範囲に移動していました。したがって大型獣の移動にあわせて、旧石器人は遠くまで獲物を追って移動しなければなりませんでした。移動しなければ、肉を口にできなかったのです。したがって長期にわたって1か所に定住することはできず、キャンプ生活を強いられました。数か月間暮らしては、次の地に移動しました。家屋としては、木の枝を円錐形に組んで、大型獣の皮で覆ったテントを利用したと考えられます。また洞穴を利用することも多かったでしょう。石灰岩の地ならば自然洞穴があるでしょうが、柳井の地では、巨大岩の陰などに隠れたかもしれません。洞穴を掘って寝所にすることもあったでしょう。柔らかい土質の伊保庄においては、洞穴掘りは容易でした。黒島から打製石器が出土したものの、黒島に長期間にわたっての定住ではなく、獲物を追って移動しました。黒島の地に縛られることなく、広範囲を生活圏としました。
旧石器時代の末期には、厳寒期を過ぎて地球が温暖化します。ウサギやタヌキなどの小型の動物が増えていきました。野山を駆け回って捕獲した動物の美味に舌鼓をうったことでしょう。次第に一家だんらんの時間が増えていきました。
前回は、伊保庄に人類が登場し、寒風に耐えながら生き延びた様子について紹介をしました。今回は、気温が上昇したことによって食物が豊富になった縄文時代に、伊保庄の先人たちがどのような生活をしていたのかを考察しましょう。
黒島のマリンパークは美しく整備されて、人気の高い海水浴場になっています。海水浴客が戯れる海浜の北側、県道の脇に「黒島浜遺跡」と表示した標柱があります。昭和51年に県道の護岸工事が行われましたが、その際の掘削作業中に縄文土器の破片が大量に発見されました。教育委員会に連絡があり、緊急に発掘調査がなされました。浜砂を約2m掘って観察すると、砂の堆積層が5段階の層であることが確認できました。上位から第4層目の砂中に、縄文土器片と風化した貝殻が濃密に包含されていたのです。
出土した膨大な量の縄文土器を詳しく調べてみると、縄文時代の前期、中期、後期、晩期にわたっての特徴が見られました。そのことによって約1万年もの長期間にわたって先人たちが黒島を生活の場としていたことが判りました。縄文時代には温暖化が進み、山々に草木が繁茂したので有機物が海浜に大量に流れ下り、貝類が大量に増殖したのです。
さらに黒島で出土した土器に刻まれた文様をよく観察すると、遠方で作られた特徴が見出せます。丸木舟で土器が運ばれてきたのです。前期の縄文土器としては、瀬戸内系の羽島(岡山県倉敷市)や月崎(山口県宇部市)の特徴が識別でき、九州系の曽畑(熊本県宇土市)や轟(熊本県宇土市)の特徴が見られます。中期の縄文土器としては、瀬戸内系の船元(岡山県倉敷市)や里木(岡山県倉敷市)の特徴が識別でき、九州系の中津(大分県中津市)の特徴が見られます。後期の縄文土器としては、瀬戸内系の津雲(岡山県笠岡市)や福田(岡山県倉敷市)があり、九州系の中津(大分県中津市)や鐘崎(福岡県宗像市)・西平(熊本県八代市)も見られます。
以上のように黒島浜で出土する土器には、東瀬戸内や西九州で流行した特徴が見られることから、遠方との交流があったことが判ります。高速道路や新幹線がない時代に、丸木舟でよくぞ運んだものです。もちろん一気に運ばれたのではなく順々に伝播した可能性はあります。また幾世代にもわたる婚姻の積み重ねによるとも考えられます。いずれにせよ交通手段は稚拙でしたが、閉鎖的な社会ではなく、ダイナミックな交流があったのです。丸木舟に乗って、遠方の異文化が伊保庄に伝来していたのです。
黒島浜の第4層から貝殻と縄文土器片が多量に出土したことから、縄文時代には、第4層のレベルに住居があったと解釈する人がいます。しかしながら土層を再検討してみると、その下の第5層も砂層なのです。砂浜の上に建物を建てて暮らすことはありません。したがって、住居は近くの丘に造っていたはずです。旧柳井南中学校の宮田遺跡で縄文土器が出土していますから、その周辺に住居を建てていたのでしょう。彼らは土器を抱えて浜に降り、貝堀りをしました。その貝を浜で土器に入れて煮沸し、ゆであがった貝の身だけを住居に持ち帰ったのです。
関東の縄文居住地には、貝塚(貝殻を多量に投棄した層)があります。ところが伊保庄周辺の縄文居住地には、貝塚がありません。住居地で貝を煮沸した関東の遺跡には貝塚がありますが、海浜で貝を煮て身だけを居住地に持ち帰った柳井地域の遺跡には貝塚がありません。浜で海水と一緒に煮た貝には塩分が混ざっており、美味しかったでしょう。煮た貝の身は天日で乾かして、保存食にもしました。冬季には野山で動物が捕獲できませんが、干し貝にお湯を注いで食し、御満悦であったでしょう。また干し貝は、交易品にもなりました。自分たちが食べる以上の量の干し貝が、生活向上に役立ちました。物々交換によって、伊保庄に存在しない物品を手に入れることができたのです。
黒島の先人たちは貝だけを食していたのではありません。様々な道具を用いて走り回る生き物を獲るなど、多彩な食生活を送っていました。その一端を紹介しましょう。
黒島浜遺跡では、縄文土器とともに石器も出土しています。楕円形の石の両端を打ち欠いた石が出土しています。それは石錘です。漁網のおもりです。石錘の凹みに紐をくくり漁網に縛りつけました。銛で魚を突くこともあったでしょうが、漁網の使用によって、収穫量が格段に多くなりました。また黒島浜遺跡からは大分県姫島産の黒曜石や水晶の破片が出土しています。ガラス質の石なので打ち割ると、鋭い刃物になります。肉を切る包丁として使いました。またその黒曜石で石鏃(弓矢)を作り、鳥や小動物を捕獲しました。柿や栗などの木の実や薬草も食べました。ドングリも食しました。ドングリはシブを抜くために山からの水にさらし、煮沸して食しました。
前回は、縄文時代に動植物が増えたことによって、豊かな食生活が実現したことを紹介しました。今回は、弥生時代の様子を探ります。稲作が伝来したことによって、さらに豊かな食生活が実現しましたが、そのことによって戦いの世に突入するのです。
米づくりが大陸から日本列島に伝来し、伊保庄においても今から約2300年前から稲作が始まりました。以降の約600年間を弥生時代と言います。高カロリーが摂取でき、長期保存が可能な米は、食生活を安定させました。また米づくりは、食生活の改善にとどまらず、集落のあり方や人間の考え方を変え、社会全体のあり様を激変させました。多人数の生存が可能になり、人口がどんどん増えることになります。弥生人は水が得やすい低地に水田を造り、その傍の微高地に住居を建てました。伊保庄における微高地での牧歌的な生活の様子は、小野上の明力遺跡や中郷の貞政遺跡や向田の阿原遺跡での発掘調査によって明らかにされています。
大陸からの稲作の伝来は、種籾と技術だけが来たのでありません。朝鮮半島から多くの人々が日本列島に渡って来て、住みつきました。渡来した人数のデータはありませんが、遺跡から出土する縄文人と弥生人の骨格を比較研究すると明確な変化が認められますから、伊保庄にも大量の朝鮮人が渡って来て混血が進んだと推察されます。
収穫した米は長期間にわたって保存できますから、肉や果物のように瞬時に食べる必要はありません。湿気を避ける高床式の倉庫を建てて、米を収納しました。一方で自分たちの居住建物は、土地を掘り窪めて造った竪穴住居でした。土壁から室内へ雨露が滲み出てくるので、壁下には溝を掘っていました。床に藁を敷いて生活しました。
稲作は、地力の優劣や技術の優劣などによって、収穫量の差を生み出します。やがて、血縁ごとに貯蓄の差が拡大していきます。格差は所有物や人口など様々な面に影響を与えますが、死者の葬り方に端的に表れました。郷中の山の斜面には、偏平な石を組合せた大段石棺群があります。穴を掘って埋めるだけの一般の墓よりも立派に造られていますから、付近には生産性が高い裕福なムラがあったと推察されます。
米を倉庫に貯蔵しておくと、その米を奪おうとする輩が出てきます。石の斧などを振り上げて、襲って来ました。安全を求めて、不便な高地に住居を移さざるをえなくなります。山の中腹に作られた住居の例が、空上にある上峠遺跡です。高い尾根の鞍部に位置し、標高が80mもあるムラです。高地に住んで、低地にある水田で働くのですから、離れた両地を往復することになりました。出土した土器によって、弥生時代中期から終末期にかけての生活跡と判りました。発掘調査をすると直径が10.96mもある大型の竪穴円形竪穴住居が検出できました。にわか造りの簡素な建物ではありません。多人数で長期間にわたって暮らす家です。焼けた柱が検出できましたから、火災を受けた建物とわかります。 その大型竪穴建物の直近には、夥しい数の石を集めて置いていました。野球ボール程度の大きさの石で、投げるに適した大きさです。川や海岸で拾い集めて運び上げたのです。なぜに多量の石を高所に運び上げたのでしょうか。麓から敵が攻め登って来た際に、投弾とする以外考えられません。標高約80mの中腹に位置する高地性のムラは、上峠遺跡のほかに城力遺跡、長宗遺跡、山近遺跡、奥原遺跡、福井遺跡、平佐遺跡、平本遺跡があります。そこでは弥生土器の破片が採取できます。発掘調査はなされていませんが、住居を建てていたはずです。いずれの遺跡も投石用の石を備えた防備集落と思われます。
不便な場所に造られた上峠遺跡などの高地性集落に驚かされるのですが、さらに信じ難いことに、不便極まりない標高270mの山稜上にも集落が築かれるのです。上峠遺跡から急傾斜を登って行くと、吹越の山稜に着きます。強風が吹き越す場所であることによって、その地名がついたのでしょう。居住には適さない山稜です。ただしそこからの眺望は抜群です。東は広島方面が見え、南には四国が見え、西には九州が見えます。遠方から敵が攻めて来る際には、敵船団の状況が一目でキャッチでき、戦闘準備ができます。しかも敵にとっては高い急斜面ですから、攻め登ろうとの気力が失せるに違いありません。上峠遺跡も吹越遺跡も、ともに防衛のためのムラではありますが、設置時期や役割にやや違いがあります。出土した土器の特徴によって時期を特定すると、上峠遺跡は弥生時代中期から終末期にかけてのムラですが、吹越遺跡は弥生時代終末期だけに存在したムラです。
弥生前期の伊保庄人は低地で豊かな暮らしをしていましたが、中期になると戦いが生じてムラを山の中腹にも造ります。さらに弥生終末期になると、組織的で強力な軍団が遠方から攻めて来るようになり、ムラを山頂に造るようになるのです。山頂のムラと中腹のムラは連携していたようです。山頂の吹越遺跡には鉄製の武器が多数出土し、中腹の上峠遺跡には敵に投げつける石が多数出土しています。したがってまずは中腹のムラで敵に応戦し、そこを突破された際には山頂の砦のムラで敵を撃滅する構想だったと思われます。
戦闘が激化し、弱肉強食の社会に巻き込まれました。嫌な時代でしたが、激しい戦闘によってヤマト政権が成立し、日本国が形成されました。生みの苦しみだったのです。
前回は、弥生時代の後半に戦争の時代に突入したことを、吹越遺跡や上峠遺跡によって理解しました。その結果、ヤマト政権を中心とする日本国家ができあがり、古墳が多く造られるようになります。伊保庄に存在する古墳について見てみましょう。
柳井地域を代表する古墳は、茶臼山古墳です。伊保庄からも遠望できます。そこから直径が44.8㎝もある大鏡が出土しています。古墳時代の鏡としては日本一の大きさです。墳丘は長さが90mもある前方後円墳です。柳井地域で最初に造られた前方後円墳です。前方後円の形態はヤマト政権の権威を示す形ですから、茶臼山古墳の築造をもって4世紀末に柳井地域がヤマト政権の傘下に入ったことが判ります。日本一の大鏡を下賜したのですから、この地域はヤマト政権にとって軍事的な要衝でした。極めて重要な場所として考えられていたのです。
現在の柳井の市街地から新庄・余田・田布施の稲作地域を経て平生の住宅街へ貫ける低地は、かつては頻繁に船が航行する長い海峡でした。郷土史家たちは古柳井水道と名付けました。長くて、屈折し、複雑な地形の海峡は、軍事基地とするに最適の地でした。九州や大陸から敵の軍船団が攻めて来る際には、かっこうの防衛拠点だったのです。ヤマト政権にとっては是非とも、この地域と強固な同盟を結んでおかねばなりません。ともに戦う親密な関係を築いておく必要がありました。
茶臼山古墳を初めにして古柳井水道の沿岸には、白鳥古墳、神花山古墳、阿多田古墳、納蔵原古墳の前方後円墳が造られました。そのうち白鳥古墳は、長さが120mもあります。古墳の大きさで権力を誇示しました。やがてヤマト政権の支配権が全国に及ぶと、軍事力を誇示する必要がなくなります。次第に小規模になり、前方後円の形にもこだわらなくなります。小型になると多大な労力を要しません。地域の最高支配者だけでなく、ムラの支配者も小型古墳を造り始めました。伊保庄の長も小型円墳を造りました。
古墳時代の後期に造られた伊保庄の円墳は、八幡山にあります。今では団地になっており、「星の見える丘工房」も建てられています。八幡山の円墳はポツンと1基があるだけではなく7・8基が並んでおり、八幡山古墳群と呼ばれています。小山の8合目に、海に向かって造られていました。ところが、第二次世界大戦中に、軍部が八幡山に高射砲陣地を造る計画を立てました。計画を知った村のリーダーは「我々の先祖の墓なので、古墳を壊さないでほしいと」との声をあげたと伝えられていますが、結局は重機でもって掘り返されました。古墳の石室を形成していた石材の一部は今も斜面に転がっています。また「星の見える丘工房」の西側にある祠の土台石にも使われています。
軍部が八幡山古墳群を重機で壊していると、副葬品であった土器が転げ出てきました。さすがに粗末にはできず、保管しました。その際に出土した遺物は現在、柳井南小学校の廊下に展示されています。壺、脚付き壺、坏、高坏、はそう(水差し)、瓶などです。茶色の軟質土器は少数で、ほとんどが灰色の硬質土器です。茶色の土器は土師器と称して野焼きです。灰色の土器は須恵器と称して窯焼きです。窯で焼く技法は古墳時代中期に大陸から伝来したもので、1000度以上の高温で焼成するので硬質です。
さて数ある灰色土器の中で、ひときわ注目される土器があります。坏の蓋です。日本では見慣れない形をしています。つまみの形は長い首の上にドーナツを乗せた形をしています。その首には3つの孔をあけています。そして坏蓋の主体は洋傘のように背高に湾曲したシルエットで、表面に斜格子文を刻んでいます。この特徴は古代朝鮮の新羅国で製作された陶質土器の形態です。したがって新羅国で作られた作品が移入したか、それとも新羅国の工人が渡来して製作したかのいずれかです。いずれにせよ伊保庄が古墳時代の後期に国際的な交流をしていた証拠です。荒海を乗り越えての交流は称賛に値します。
旧柳井南中学校のグランド南隣の崖下には、古墳公園が造られています。現在では中学生が除草や清掃をすることもなく、藪に覆われてしまっていることでしょう。そこには古墳時代後期に造られた小型円墳の上八古墳が移築再現してあります。昭和41年に学校の用地造成中にこの古墳が見つかり、発掘調査がなされました。大きな石を組んで横穴式の石室を造っていました。奥行きが7m、幅が2.5mの石組みです。柳井茶臼山古墳は竪穴式石室なので、1人の遺体を上から石室内に入れて、天井石で覆う方式です。ところが上八古墳は横穴式石室なので、遺体を上からではなく横から入れて、入口に石を積みました。横穴式ですと、追葬ができます。つまり新たに遺体が生じた際に、新しい古墳を造るのではなく、入口の石積みを開けて葬ることができます。したがって1人のための墓でなく、家族のための墓になったのです。石室内には江戸時代の銭が、15個も1か所ではなく、あちこちに散乱していました。したがって上八古墳では、江戸時代にも複数人の追葬が行われており、銭を供えていたことがわかります。
柳井南小学校のあたりから西に向かって坂を登って行くと、山稜に古刹の般若寺があります。寺の創建にまつわる般若姫伝説は、伊保庄に住む人にとっては、子どもの頃から慣れ親しんできた話です。その伝説は、歴史的事実にラブストーリーなどの創作を加えて、興味深い物語に仕立てられています。ここでは創作部分を剥ぎ取って、歴史の真実を甦らせてみたいと思います。
まず最初に、般若姫伝説の概要を再確認しておきましょう。
今から約1500年前、都に玉津姫という絶世の美女がいました。ある日、顔に大きなアザができてしまいました。明神に祈っていると「豊後(大分県)の炭焼小五郎と結婚すれば、アザが消えるであろう」とのお告げがありました。玉津姫は豊後に向かい炭焼小五郎に会い、まずは美味しい食物を買ってくるように黄金を渡します。小五郎が池のほとりを歩いていると鳥がいました。夕飯の材料にと黄金を投げつけましたが、鳥に当たらずに黄金は池の中に落ちてしまいました。悔やむ玉津姫に、小五郎が「黄金ならば裏山にいくらでもある」と言います。何と裏山に行ってみると、黄金がザクザクあるではありませんか。2人は大金持ちになり、玉津姫のアザは消え、小五郎も貴公子の顔になりました。豊かになった2人は真野長者と呼ばれ、幸せな生活を送りました。
やがて玉津姫は可愛い女児を生み、般若姫と名付けました。般若姫の美しさは、都にまで伝わり、橘豊日皇子(たちばなとよひのみこと・後に用明天皇)は般若姫を妃にしようと豊後に向かいます。皇子の武者ぶりや高い知性が長者に認められ、2人は結婚を許されます。般若姫は橘豊日皇子の子を宿します。ところが皇子に「都に帰れ」との欽明天皇の命令がもたらされ、皇子は妊娠中の般若姫を置いて先に都へ戻ります。
出産後に般若姫は、財宝を満載した百艘を越える百済船で臼杵の港を出帆し、都に向かいます。運悪く平郡島の沖で嵐に遭遇し、姫島に漂着します。再び出航しますが、またもや柳井の沖で嵐に吹き戻されて、熊毛半島に漂着しました。陽射しが強く「ああ、暑きかな!」と姫が声を漏らされたので、阿月の地名が付きました。さらに北上をすると、魚が浜に水揚げされる場面に遭遇しました。姫が「ここは魚の庄ですね」と言われたことから、ウオノショウ(後に伊保庄)の地名が付きました。さらに足を伸ばして柳井津に着くと、強い陽射しを受けて姫は脱水状態になります。ちょうどそこには井戸があり、その清水を口にすると、姫はみるみる生気を取り戻しました。姫が感謝の気持ちを込めて、胸元から柳の楊枝を取り出して井戸の傍らに刺したところ、不思議なことに柳の楊枝から芽が出て、夜のうちにぐんぐん伸びて大木になりました。後に人々は柳と井戸を愛でて、この地を柳井と呼ぶようになりました。
一行が再び乗船をして大畠の瀬戸にさしかかると、にわかに空がかき曇り、暴風雨となりました。般若姫は自分が龍神の生贄になって嵐を鎮めようと、荒れ狂う波の中に身を投げました。橘豊日皇子は悲嘆にくれます。用明天皇となってからも悲しみは消えず、姫の菩提(霊)を弔う寺の建立を命じました。こうして般若寺が創建されたのです。
興味を引くための後世の粉飾を削ぎ落して、般若姫伝説のもとになった歴史的真実を探ってみましょう。